
私の易の学び方
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易と陽明学
自分の心と向き合い、良知を養って実践し、自然摂理に則って生きているか日々、自問自答することが大切です。『易経』を学ぶことが陽明学を知る近道になります。
王陽明(1472~1529・58歳没)は中国・明朝時代の儒学者、文武両道の文官で陽明学を起こした聖人です。明朝時代は今までになく皇帝の独裁政権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影響を及ぼした時代でもあります。歴史はこのような暗黒が蔓延した時代に英雄や聖人を出現させます。王陽明もその一人です。彼は文官ですが、武芸や詩学など様々な才能に秀で、儒学と兵法を究めた文武両道の儒学者でした。彼は日常生活の中で、実践を通して心に理を求める実践の儒学である陽明学を唱えました。王陽明の功績は三征という軍事的業績があります。それは、江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧や寧王の乱をわずか2か月で鎮圧した事、及び、江西で反乱が起き、病気をおして討伐、戦後処理を行ったことです。
彼が35歳の時、15歳の武宗が即位したが宦官の劉瑾(りゅうきん)に実権を任せていた愚かな皇帝でした。宦官の劉謹は実権をほしいまま行い、贈収賄が横行して、それを諫言する者は粛清されました。軍紀は退廃し政治は弱体化しました。王陽明は皇帝に諫言する職務の諫官を投獄することに対して批判し、弁護する上疏文(じょうそぶん)を提出したが、反対に劉瑾を弾劾したことで武宗皇帝を怒らせ、投獄されてしまいます。厳しい鞭打ちを受け、十二月の厳しい寒さの中で『易経』を読み研究したと伝えられています。
陽明は伝習録の中で『「易」とは、天に判断を問う事です。中略。天のみは作為の付け入る余地がないからです。』と言っています。その後、貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まりました。その時に占筮して得た卦は。地火明夷・䷣の「不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意」でした。陽明はついに、龍場に行く決意をし、その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記しました。
陽明学を知らない方は革命思想と言った誤解と偏見を持っておられます。王陽明は逆境の中で『易経』を極められた人です。王陽明は『易経』の自然摂理を悟り、それに則った行動を行った聖人です。是非、安岡正篤、岡田武彦、林田明大、各先生方の王陽明の著書を読んでいただきたいと思っています。
私の生活の基本は「今行おうとしている事は自然に則して正しい事なのか」を考えて行動しています。この教えは作家で陽明学研究家の林田明大先生の講演会で聞いた内容を生活の中で実践しています。人間が持っている良知(生まれながらに持っている善悪を誤らない正しい知恵)を致す(発揮する)が王陽明先生が唱えた「致良致」で、それを実践するのが「知行合一」です。22段飛びで社長になられた松下電器産業株式会社の元社長の山下俊彦氏は「本を読んで良いと思ったことは実践しないと、それは読書ではない」と言われていました。山下俊彦元社長も中国古典を読まれ人間学を学ばれて経営で実践されていました。

王陽明石像
陽明学のまとめ
⑴儒教の創始者達
孔子(552~479 BC)春秋時代の人。人倫道徳を主眼とした理想的な社会を実現するこ
とと、伝統文化を尊重し、これを学んでそこから時代に適応する新しい道を創造する事
(温故知新)を説いています。
孟子(372~289 BC)戦国時代の人。老子、荘子などの超越主義の影響もあり、徳業の
本である人間の本性や良心を説いています。万物我に備わる「善は人と与にし」「楽し
みは人と与にする」万物一体思想です。
⑵朱子と陽明の比較
理知的で他律的な人倫道徳を説いた朱子に対して、情愛に溢れた自律的な人倫道徳を
説いたのは陽明です。
⑶王陽明について
姓:王 名:守仁 字(あざな):伯安 号:陽明 諡(おくりな):文成
一般的には王陽明と尊称される。中国明代の儒学者、文官(文武両道の儒学者)
58歳没(1472~1529)
⑷明朝時代の背景
明朝時代は今までになく皇帝の独裁権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影
響を及ぼしました。南宋と明の末期の時代は歴史の中でも退廃した世の中でした。この
ような退廃した世の中から社会貢献をした偉大な賢人が輩出したのは、意義深いものが
あります。
⑸思想体系
陸象山の心に万物の法則があるという「心即理」の立場をより明確にしました。
⑹格物致知
あらゆる事(物)を格(ただ)すことで、誰もが本来持っている良知を発揮すること
ができる様になります。(良知:人が生まれながらに持っている、是非・善悪を誤ら
ない正しい知恵)
⑺理・気
【一元論】大宇宙の法則である「理」とそれらを構成する要素である「気」は一体であ
ると考えました。理、気、性、物は一体であり、自己の外にあるものではないと考え
ました。万物一体思想。聖学の究極である万物一体の仁としました。
⑻性、理
万物に具わっている本性を「性」と言います。性即理という立場は朱子と変わりませ
んが性は理の作用であると考えました。
⑼善悪
性善説。人間の本質は至善で、本来は善悪一元、又は、無善無悪です。しかし、相
対的な存在としての善悪があるので、良知を発揮して至善に至ることが大切としてい
ます。
⑽経書に対する姿勢
心の学びがあってこその経書と考えました。
⑾静坐
内省の手段として勧めたが、静に偏ることや厭世的(えんせいてき:人生を悲観し、
生きるのがいやになるさま)になることを戒めました。
「静坐悟入(理・本質を体認する静坐)」と言われ、門人中で間違って認識し仏教の
静寂の道に陥る者が出たので廃しました。
⑿聖人君子
聖人君子と同じ心を誰もが持っていると考え、それを発揮することを主張しました。
⒀大学
『大学古本』朱子が改訂する前の『大学』を王陽明は提唱しました。『大学』は大人
の学です。大人とは天地万物を一体とするものです。
『大学』:儒学の理想である修己治人を要領よく系統的に説き明かした書物で、修
身、斉家、治国、平天下の政治と学問を直結した儒学の精髄です。
⒁『大学』三綱領の「親民」
民に親しむと解釈し、民と同じ目線に立った民との融和と考えました。
『大学』の三綱領のあと二つは「明徳(天から授かった立派な本性を明らかにす
る)」「至善」を言います。
⒂『大学』八条目
理を窮めて性を尽くすことを、「物、知、意、心、身、家、国、天下」という観点で
説いたものと考えました。
◎日本の小学校の校庭にある二宮金次郎像が読んでいる本は何?
彼が読んでいる本は『大学』で、大学の伝九章の一文が書いてあります。
(書いてないものもあります) 子供たちに教えてあげたいですね。
一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。
一人ひとりが仁(思いやり)の心を持てば、国すべてが仁の心になり
一人ひとりが謙虚な気持ちを持てば、国すべてが謙虚な心になる。
一人ひとりが利を貪れば、国は乱れてしまう。
⒃人民救済天下平定
王陽明の三征(軍事的業績)
・江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧
・寧王の乱をわずか2か月で鎮圧
・江西で反乱、病気をおして討伐、戦後処理
⒄『易』の占筮事例
王陽明:貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まった時に占筮して得た卦は、
地火明夷 ䷣でした。その意は不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ
意になります。王陽明の状況と一緒の内容になります。そして、陽明は龍場に行
く決意をしました。その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記したのでし
た。
⒅名言
王陽明「山中の賊を破るのは易いが、心中の賊を破るのは難しい」
「此の心光明亦復(またま)た何をか言わん」王陽明辞世の句
(我々の心の中には光り輝く良知があるではないか、他に何も言い残すことはない)
⒆易
王陽明の言葉「易とは天に判断を請うことである」
弟子で心学易研究の王龍溪(王畿)は心にこそ真理があるとする心即理を易で解釈し
ました。
※この「陽明学のまとめ」の記事はイーチンライフ・I CHING LIFE の柏村學震氏に協力していただき共同執筆しております。
私が読んだ陽明学関連の本
『中国の人と思想⑼ 王陽明』百死千難に生きる 山下龍二 著 集英社
『王陽明』 安岡正篤 著 現代活学講和集7 PHP研究所
『現代の陽明学』 岡田武彦 著 明徳出版社 発行
『真説・陽明学』入門 林田明大 著 ワニブックス
『評伝 二宮金次郎』心の徳を掘り起こす 童門冬二 著 致知出版社
『王陽明 伝習録』溝口雄三 著 中央公論社
陽明学のバイブルは伝習録です。陽明学を学ぶには必読の書になっています。
日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹
1608(慶長13年)-1648(慶安元年)。江戸時代初期の儒学者。わが国における陽明学の開祖。数多くの徳行、感化によって、没後に《近江聖人》とたたえられる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に、中江吉次の長男として生まれる。
名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。
9歳、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。10歳、藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。15歳、祖父の死去により、100石取りの武士となる。17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。しかし、33歳のとき、『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや、熟読玩味して、おおいに触発感得をうける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。これより以前の27歳のとき、母への孝養と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、ふるさとの小川村へ帰る。浪人(牢人とも書く)となった藤樹は、居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。
代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における蕃山の事績によって、藤樹の名声をいちだんと高めたことは注目しなければならない。
また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。
藤樹の著書は、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。そのおもなものとして、『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがある。

びわ湖源流の郷・高島市より 近江聖人中江藤樹の遺構を訪ねて
YouTube アミンチュ公式チャネルより掲載

藤樹夫妻の神主(位牌)(藤樹書院内)
神龕欄間(しんがんらんま)の上部に地山謙・䷎、左扉に八卦の乾・☰(藤樹先生)が、右側に坤・☷(奥様)が其々刻まれています。中江藤樹先生にぴったりの地山謙の卦になっています。感動致しました。
この写真はホームページ「蒼流庵随想・漢方と易学」の蒼流庵様の許可を得て掲載しています。掲載許可有難うございます。
地山謙(ちざんけん・序卦伝 15番目の卦) ䷎ 謙(けん) 艮下上坤
謙遜 【謙遜・謙譲の道】
地山謙は謙遜、謙譲、身を低くして遜(へりくだ)る卦です。外卦に坤・地、内卦に艮・山があり、地より高い山が下に在る処から遜る象としてこの卦を名付けています。謙は徳の根幹で、君子の有終の美となります。謙遜の心は神からも人からも愛されるのである。
「謙は軽くして、豫は怠るなり。」(雑卦伝)
謙は身を軽くして遜(へりくだ)っている、豫は悦び楽しんでいるので気が緩み怠惰になる。
彖辞(卦辞)「謙、亨。君子有終。謙は、亨る。君子終わり有り。」
謙遜は物事がうまく通ずる。徳ある君子は謙遜の心を持ち、有終の道を全うで
きるのである。
大象伝 「地中有山、謙。君子以裒多益寡、稱物平施。 地中に山有るは、謙なり。
君子以て多きを裒(へ)らし寡(すくな)きを益し、物を称(はか)り施しを平らかに
す。」
地の中に高い山があるのは謙である。君子はこの卦を見て多き者を減らして、少な
き者を益し、それぞれの物の状態を量り施し、世の中を平均化するのである。
藤樹先生は門弟に『易経』をしっかり学ぶように言われたようです。『易経』をしっかり学ぶことが陽明学を知る近道だと思います。
心学易を推進されている、柏村學震さんとのSNS/メール交流で学ぶことができました。
