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​易と道教

道教は福永光司先生の説では四重構造になっています。殷王朝を源流とする巫術(ふじゅつ・鬼道)の上に時代の経過と共に葬祭祭典の儒教が乗り、その上にインドからシルクロードを経由してきた仏教が乗り、最後に総合的、且つ集大成する形で道教(道家の老荘思想(無為自然)、易、陰陽、五行、神仙思想、不老不死信仰、医学、占星術などを含む)が乗る複合宗教です。思想・神学として完成を見せる隋唐五代の時期(A.D.6~10)が黄金期になります。

 

第一段階の「鬼道〔巫術〕」の教え(殷王朝から)、第二段階の「神道」の教え(秦漢時代・B.C.3~A.D.2)、第三段階の「真道」の教え(魏晋時代・A.D.3~4)、第四段階の「聖道」の教え(斉梁時代・A.D.5~6)と変遷してきました。基準経典は1019年北宋の真宗皇帝時代に皇帝の勅撰で完成した『雲笈七籤』(うんきゅうしちせん)百二十巻になります。

 

道教の究極的目的は病を退け災いを避けて不老長生することです。この世の利益的な宗教と言えます。

※巫術:原始宗教の一つで、神が人にのり移り、予言、吉凶の判断、悪霊の退散を行う術。

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道教は哲学、方術、医術、倫理の各側面で構成されています。

哲学的側面:中国古代の上帝信仰を『易経』の哲学や陰陽五行思想と『老子』『荘子』の無為自然「道」哲学で理論化した側面。

方術的側面:神仙説、卜筮、巫祝(ふしゅく・シャーマン)、讖緯(しんい)などで未来を予言し、災いを除き福を招く術の側面。

医術的側面:不老長生の方法、服餌(ふくじ・仙薬の服用で不死不老長生)、調息(呼吸

を調える)、導引(筋肉運動・太極拳)などの医術的な側面

倫理的側面:儒教や仏教の影響を受けているが、この世の利益が目的なので功利主義的である。

参考書籍:『日本の道教遺跡を歩く』福永光司・千田稔・高橋徹 著 朝日新聞出版 発​ 2003年 /『道教と日本文化』神道国際学会 編集・発行 たちばな出版 発売 2005年 基調講演 『日本の神社仏閣に見られる道教の要素』河野訓 著​ 

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中国古代の上帝信仰を『易経』の哲学と

『老子』『荘子』の無為自然の哲学で理論化

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思想・神学として完成を見せる中国隋唐五代  

中国隋唐五代の時期(A.D.6~10・飛鳥時代~平安時代前期)の道教の黄金期に古代日本政府の留学生が多く中国に送り込まれました。607年に聖徳太子が小野妹子を遣随使として隋に派遣し、その後、奈良時代には阿倍仲麻呂を遣唐使として多くの留学生が中国に渡りました。遣隋使の目的は日本を対等な国として認めて貰う事と、隋の制度や文化を学ぶ事でした。一番目の対等な国として認められませんでしたが(その後、認められるように努力しました。)、二番目の目的は達成する事は出来ました。この時から道教が本格的に持ちこまれ、国政に活用されるようになりました。聖徳太子は隋の制度や文化情報を参考にして「十七条憲法」(『易経』の影響受けている形跡があります)や「官位十二階制」(陰陽五行説の影響を受けています)を制定しました。

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​海を渡った道教の神様・『鍾馗』

​この時代に、中国から海を渡って日本に伝来した道教の神々がいます。四神もその神々の中に入ります。特に京都で有名なのが鍾馗(しょうき)さんです。京都市街の家の屋根に魔除けとして設置されています。時代は唐朝第六代皇帝・玄宗皇帝(685~762)の時代に遡ります。鍾馗さんは武術の科挙試験(科挙試験は武術系(武官)と文化系(文官)がありました)を受けたのですが、試験に失敗して悲嘆のあまり自殺してしまいます。それを知った玄宗皇帝は鍾馗の亡骸を手厚く埋葬しました。ある時、玄宗皇帝が重い病気にかかり床に臥せていました。その時に玄宗皇帝は夢を見ました。小さな鬼が妻の楊貴妃の香り袋を盗んだのでした。鬼の手が玄宗にかかろうとした時、髭面の大男が現れ鬼を引き裂いてあっという間に退治してしまったのです。その鬼を退治したのは鍾馗でした。玄宗皇帝が夢から覚めると病はすっかり癒えて元気になり、早々、一流の画家・呉道子(道士で画家)に夢に出てきた鍾馗の絵を描かせました。これが鍾馗さんが流行りだした起源となります。

詳しい話は京瓦.COMの鍾馗さんの説明をお読みください

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​京都市街の屋根に設置された色々な表情を見せる鍾馗さん。左は刀を持っています。京都市東山区にて撮影。

​第二次世界大戦時、陸軍の戦闘機で「鍾馗」があります。陸軍は昭和16年以降に正式名と一緒に愛称が付与されました。鬼畜米英の魔除けに因んだのでしょうか? 他に「隼(正式名が一式戦闘機)」「飛燕」「疾風」などがあります。

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​プラモデルメーカー・ハセガワの『鍾馗』より出典

​易と陰陽道

陰陽道の基となっているのは易と陰陽五行説で、継体天皇の時代の513年に百済から初めて五行博士が来ています。また、欽明天皇の時代の554年に易博士、暦博士、医博士が百済から日本の要請で派遣されて来ています。この様に易と陰陽五行説は中国から百済経由で伝わっています。

陰陽五行説

陰陽五行説は古代中国の自然哲学で、宇宙や自然界に存在する全ての現象やものは陰陽の調和から成り立ち、陰陽の消長、変化、循環によって生まれるとする陰陽説と、宇宙の全ての万物は木火土金水の五つの気(五行)によってできているという説で成り立っています。宇宙にはこの五つの気が絶えず循環しており、運行していることを行と言い、五行という。五行には相生・相克関係があり、森羅万象の生成・変化を説く考え方が陰陽五行説です。中国の春秋戦国時代の鄒衍(すうえん)によって唱えられました。我々が存在する宇宙・自然界は膨張(陽⚊)し、収縮(陰⚋)して循環します。

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◆五行の法則

五行の法則には、相性と相克関係があり、相性は自分から他のものを生み出し、反対に他のものを剋していく相克があります。

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​陰陽道と陰陽師

平安時代に中国の唐の太卜署を真似て陰陽寮が設立され、天文・暦・漏刻・陰陽の四部門がつくられました。陰陽道は陰陽寮のスペシャリストや組織、及び職務内容を指す言葉です。10世紀頃から家業・職業の意味で『陰陽道』と言う言葉を使い始めました。その後、「陰陽」部門が拡大し占いと祭祀を中心に展開し、陰陽師の安倍晴明らが宮廷や貴族社会で活躍していきます。女優の吉高由里子主演で主人公・紫式部役を演じる、2024年NHK大河ドラマ『ひかる君へ』に安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)も登場するようです。平安宮廷の権力闘争と人間模様や陰陽師を学べそうです。楽しみです。

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​白虎(びゃっこ)

​四神

​玄武(げんぶ)

​朱雀(すざく)

​蒼龍(そうりゅう)

 陰陽寮の組織

陰陽頭----陰陽助—//-中略

陰陽師--未来と土地の吉凶を占う専門職

陰陽博士--陰陽生の教育

暦博士--暦の作成と暦生の教育

天文博士--天文の観察と天文生の教育

漏刻博士--水時計の管理と時刻を計測

陰陽師の仕事

土地の選定---都の選定、墓陵の選定、寺社の地相を占う

占い---筮竹による易占、太一式、遁甲式、六任式占(天盤と地盤)。平安時代は六任式占(天盤と地盤)が主流となりました。

・国の災害や国の社寺で起こった怪異現象の究明など、占いで国政のサポートをして

いました。・日の吉凶、方位の吉凶の占いも行います。

天文---皇帝の政治が悪いと、その警告として天災が発生し皇帝を戒めると中国では信じられていました。その考えが日本に導入されました。日食、月食、彗星、流星、惑星の動きなどで天変地異を予知し天皇に報告をしていました。天皇が知る報告書を「天文密奏」と云われていました。

暦の作成---国を統治する天皇として、暦を暦博士につくらせ庶民に授けました。

祭祀・祓---罪や穢れを払う儀式です。無病息災、安産祈願、延命祈願、豊作祈願なども含まれます。・都を疫病から守る為に四角四堺祭が行われました。・雨乞いを行う五龍祭、延命・健康を願う天曹地府祭、水と火に祈る防解火災祭、土神に祈る土公祭などがあります。

呪詛・霊符による人の生死を操る様な事もやっていました。安倍晴明は式神(鬼神)を駆使した逸話が残っています。

陰陽師の活動の様子がよくわかる書物は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』です。四代将軍藤原頼経(九条家の三寅)の新しい御所づくりから、入御するまでの間の陰陽師が活躍する内容が書かれています。

※参考書籍:『陰陽師の解剖図鑑』川合章子 著 ㈱エクスナレッジ 2021年

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京都堀川一條・晴明神社

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​京都市上京区堀川通一条上ルに天文学者・安倍晴明公(921~1005)の晴明神社があります。安倍晴明は孝元帝の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の後胤(子孫)で、幼いころから多くの道に秀でており、特に天文暦学の道を深く極めました。成人してからは皆様がご存じの官僚陰陽師(天文陰陽博士)として活躍します。

 

四十歳で天文得業生(天文学生)、四十七歳で陰陽師、五十二歳で天文博士、六十六歳で正五位下、七十三歳で正五位上、八十歳で従四位下、八十二歳で左京権大夫、八十五歳の九月に逝去しました。四十歳までは不遇でしたが、晩年は従四位下まで上り詰め、陰陽師のトップになりました。他界するその年の春まで現役だったそうで健康体だったのではと想像します。大器晩成の陰陽師ですね。

右の写真は『縁結び夫婦和合の陰陽御守』です。「丸い太極の黒(陰)は女性 白(陽)は男性を表します。この御守で 陰陽のバランスを保ち 固き縁(えにし)をお結び下さい。」と書かれています。

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晴明桔梗印に関して

​「晴明神社の神紋は晴明桔梗といわれ、晴明公が創められた独特のもので、陰陽道の祈祷呪符の一つです。天地五行を象(かた)どり宇宙万物の徐災清浄を表しています。ギリシャ語でペンタグランマンと称し西洋諸国でも魔除けの印しとなっています。旧日本陸軍を初め各国軍隊が星の紋章を使用し、又幔幕の縄通し、衣服の一端に縫い込まれているのは皆厄除開運を願っている為です。」

​※要約書籍:『御祭神安倍晴明公秘伝 令和五癸卯年本暦 京都堀川一條 晴明神社』 天社土御門神道本庁・土御門文書編集所 発行・編著 2022年6月発行  p.49の晴明桔梗印を要約

​国宝 姫路城も四神で守られています

​姫路城は陰陽道の四神相応を用いて築造されています。姫路城を築造(1601~1609)した池田輝政(1565~1613)は北の基準としたのが廣峯山(廣峯神社・牛頭天王総本宮と黒田官兵衛で有名)です。

​北の守護神・玄武は廣峯山、東の守護神・蒼龍は市川、南の守護神・朱雀は瀬戸内海、西の守護神・白虎は山陽道です。姫路城はこの四神に守られて明治維新や第二次世界大戦を乗り越えて美しい姿を私たちに見せてくれています。

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​仁寿山山頂から望む姫路城と姫路市街

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