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​易と歴史

​ふるさとの賢人を調べてください。『易経』にまつわる話が出てきます。

それがあなたにとっての貴重な『易経』の学びとなるはずです。

易の作者(伝説)

漢書の藝文志に『人は三聖を更(か)へ、世は三古を歴(へ)たり。』と記されています。易を著した人は三人の聖人(伏羲(ふっき)、文王、孔子)で、三つの古い時代(神話伝説の時代、周の時代、春秋戦国時代)を経て完成されたものであると云われています。

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​©Akamatsu Noboru

易発祥の地、中国の歴史

易の起源は、中国の古代人が農耕の営みから、自然現象に気付き、そこから自然の摂理を知る方法を解き明かしました。そして、占いに生まれ、その後、儒教の倫理道徳を付加され、神話時代から数えると約五千年以上の歴史を生き抜いてきました。中国の神話時代の伏羲(ふっき・ふくぎ)が八卦を発案し、夏の時代に艮為山(ごんいさん)を最初に置いて配列していった「連山易(れんざんえき)」(山岳生活)と、殷の時代に坤為地(こんいち)を最初に置いて配列した「帰蔵易(きぞうえき)」(平地生活)がありましたが、それらはその後滅びてしましました。後に、紀元前12世紀の周の時代に乾為天(けんいてん)を最初に置いて配列した「周易」(乾為天)ができ上がり、今日に伝わる原型がほぼ完成しました。そして、秦の始皇帝の焚書坑儒を乗り越えて、宋の時代に『易経』と呼ばれるようになり、今日まで生き抜いてきました。我々が活用している『易経』は周易が成立してから現在に至るまで、約三千年経っており、中国最古の書です。「易」の字は「易(か)わる」という意味を含んでいます。「易」は森羅万象の摂理を網羅しており、宇宙観と人生観を一体とした天人合一化したものです。

『易経』の「経」とは何か

「経」とは織物の縦糸の意味を持ち、そこから物事の筋道、人生の道、国を治める道、そして、宇宙・自然摂理の道を言い、不変の道理を書いた書物です。

 

『易経』は儒教の筆頭学問となる

「易」はその後、周の時代に「周易」、宋の時代に『易経』と呼ばれるようになり、儒教の筆頭経書(けいしょ)になりました。中国では『易経』を筆頭に「詩経」「書経」「礼記」「春秋」を合わせて五経と呼ばれています。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書と合わせて、四書五経として儒教のバイブルとなっています。

⑴四書

「大学」:大人(君主、リーダー)の学問。修身斉家(自己を修め正して、家庭を整え治めると)、治国平天下(国をうまく治め、天下を平和にすること)の儒学の政治哲学と学問の書。(紀元前430年頃)

「論語」:孔子の言行録。孔子とその門弟や諸侯の問答を記録したもの。(紀元前450年頃)対人関係を律する学問とも云われています。

「孟子」:孟子の言行録。仁義の道徳を主張した儒家。(紀元前280年頃)

「中庸」:「誠」「中」を基本とし、偏らない正しい思考や行動規範を説いた書(紀元前430年頃)

⑵五経

『易経』:占いが原典で中国の伝統思想である。自然哲学、占い(象数易)、倫理道徳(義理易)などを包含しています。人間は生きていく上で悩み患う(憂患)生物であり『易経』はそれを解決するものと言われています。また、自己を律する学問とも言われています。(紀元前700年頃)

「詩経」:古代中国の人々の生活を歌った最古の詩歌集(紀元前470年頃)

「書経」:中国最古の政治の規範書で名君、賢臣の語録や宣言集(紀元前600年頃)

「礼記」:慣習に基づく規範で日常の礼儀作法から始まり、冠婚葬祭の儀礼、官爵と身分制度、及び学問、修養とその精神について記された書。(紀元前50年頃)

「春秋」​:春秋時代・魯の国の年代記(紀元前700~200年頃)

日本の易の歴史

日本には4世紀頃に易や陰陽五行思想を包含した道教や儒教の五経博士が伝来し、道教や儒教の考え方が国の中枢で扱われるようになりました。そして、それらは神道にも影響を与えていきます。その後、聖徳太子が「憲法十七条」を制定(604年)しましたが、その文に『易経』を学んだ形跡が見あたります。また、陰陽道に関しては、平安時代に陰陽寮が設立され、天文・暦・漏刻・陰陽の四部門がつくられました。その後、「陰陽」部門が拡大し占いと祭祀を中心に展開し、陰陽師の安倍晴明らが宮廷や貴族社会で活躍していきます。鎌倉時代は足利学校で『易経』と易占の講義が行われました。江戸時代に入り、朱子学が官学になり、四書五経が学ばれるようになり、多くの儒学者が輩出しました。その中で新井白蛾が易学では有名で、門下に真勢中州がいました。明治に入り、易学家の高嶋嘉右衛門や「昭和の易聖」といわれた易学者の加藤大岳が輩出しました。また、​易学者、陽明学者・哲学者・思想家の安岡正篤は易学の重要性を説いています。

後醍醐天皇の占筮の事例(頼山陽の日本外史)

 頼山陽の日本外史に後醍醐天皇の占筮の内容が載っています。楠氏編に伯耆の行在所(あんざいしょ)で京に戻るか占筮を行い、「師の蒙に之くに遇う」と記載されています。つまり、本卦(現代)は地水師、爻は六爻、之卦(未来)は山水蒙です。「地水師」は「戦い」、六爻は論功行賞を正しく行うことが大事な終結という意味です。後醍醐天皇はこの論功行賞を正しく行わなかった為に、太平の世には成らず、混迷の世にしてしまいました。「山水蒙」の意は「思慮不足して失敗」です。太平記の著者は皮肉を込めて本の名前を付けたと推察される方がおられます。

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​©Akamatsu Noboru

​©Akamatsu Noboru

​『易経』と頼山陽

頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。

 頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。頼山陽先生のこともこれから書いていきたいと思っています。昔の学者や文化人を通して生き方や日本を知っていけたらと思っています。

※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。

 頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。

※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い

  られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。

◇頼山陽銅像  (竹原).JPG

​©Akamatsu Noboru

頼山陽の銅像
頼山陽の故郷・広島竹原

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    頼山陽の絵         ​箱入り「黒松剣菱」の中の冊子

(赤穂浪士が出陣の時に飲んだ酒も剣菱です。武士の酒ですね。)

​『易経』を十二歳で読み終えた頼山陽

考察 『易経』が頼山陽に影響を与えたものとは

 頼山陽は12歳(以下全て数え年)で『易経』を読み終えて、「立志論」を書きました。そして、14歳で「述懐(立志詩)」を作りました。その漢詩が、学界の重鎮で昌平黌教授、柴野(しばの)栗山(りつざん)の目に留まり、高く評価され、父、春水を通して、詩より歴史を学ぶようにと、『通鑑綱目(つがんこうもく)』(朱熹の撰と云われる史書)を薦められました。そして、彼はこのアドバイスを受け、『通鑑綱目』から勉強を始めるのでした。この学びが彼の見識と史観を高める事となり、彼のデビューのきっかけをつくる出来事となりました。

 私は、この頼山陽の話を知り、12歳で、このようなことができるのは天才であると思いました。彼の決意としての立志論を書かせ、立志詩を作らせたのは『易経』が大きくかかわっているのではないかと考えています。その『易経』の教えは何だったのか、私なり考察をしたいと思います。

先ず、頼山陽が幼少期に読んだ書物を、順を追って確認したいと思います。7歳の時には四書の大学の素読を始めています。大学は、君主や宰相として天下を導く者が治める学門で、修身、斉家、治国、平天下の政治哲学と学問を結び付けた大人の学です。次に、10歳の時、読んだのが四書の論語です。論語は孔子の言行録で、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方を説いた書物です。そして、12歳の4月に経書の筆頭である『易経』を修了しています。

 『易経』は占いと人倫道徳を包含し、自然摂理と自然哲学を教えている経書です。『易経』は変化の書であり、「生」の学問です。現代人は『易経』と言えば、占いと思う人が多く、また、インターネット検索をすると占いの内容で満ち溢れています。いつの間に、日本人は占いばかりに興味を持つようになってしまったのか、本当に残念でしかたありません。『易経』は簡単に言いますと、64卦、つまり64の自然から学んだ物語と君子への教えで構成されています。また、『易経』はストーリー付けされた順序(序卦伝)で配置されています。1番目の乾為天(けんいてん)(天)と2番目の坤為地(こんいち)(地)が、交流して3番目の水雷屯(すいらいちゅん)(万物発生)となり、~中略、63番目は水火既済(すいかきせい)(完成)、そして、最後の64番目は火水未済(かすいびせい)(未完成)となり、誕生から完成、完成から未完成となり、新たなるスタートとなります。そして、永久に循環していきます。

序卦伝画像2.jpg

​©Akamatsu Noboru

 そして、易には三義(さんぎ)と六義(りくぎ)が有ります。

◆易の三(さん)義(ぎ)と六(りく)義(ぎ)   ※三義は①~③、六義は①~⑥

 ①易簡(いかん)(分かり易い) 自然摂理はシンプルです。

 ②変易(へんえき)(変わる)例)1年の季節は刻々と変わります。

 ③不易(ふえき)(不変) 例)次の年も変わらぬ四季は来ます。

 ④神秘的です。   

 ⑤創造・発展(天地万物の創造・進化)します。

 ⑥治めます。(自然現象を観て、人間の道を治めます。)

 頼山陽は、我々人間は刻々と変化する時間の中で生きている、人間にとって学を治めるには時間がない、この世で大成するには、まず、志を立てて早く踏み出したい、そして、公に尽くし、国の為に尽くしたいと自覚し、決心したのではないかと考えます。そして、『易経』は乾為天(けんいてん)と、坤為地(こんいち)を理解できれば、大半を理解できたことになるとも云われています。その一番目の乾為天は「龍による帝王学の物語」となっています。乾為天は天であり積極果敢に活動する大元気で、万物を発生させ、育成させる卦です。次に、彖辞(たんじ)と爻辞(こうじ)の内容を見ていきたいと思います。

 

彖辞(たんじ) 乾は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し。

       乾は、大いに事が運び、うまく叶う。正しい事を固く守ること。

    彖辞:卦の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉) 

爻辞(こうじ) 下に記載。

    爻辞爻の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉)

    ※爻の表示は算木と同じようにしています。

用九、羣龍(ぐんりゅう)を見るに首(かしら)无(な)し。吉(きつ)なり。

   六つの陽爻の龍は首を雲で隠して現わさない。従順・謙遜であれば吉である。

   ※用九:六十四卦全ての九爻(陽爻)の用い方が示されている。

上九(じょうきゅう):亢龍(こうりゅう)なり。悔(く)いあり。

          昇りつめた龍。頂点を極めた時。自ら後退する。  

九五(きゅうご):飛龍(ひりゅう)、天にあり。大人(たいじん)を見るに利(よろ)し。

        天空を飛ぶ龍。運気盛大で能力を発揮できる時。志を達成したが驕 

        り高ぶらず、衰退に対処すること。リーダーの人材育成を行う時。

九四(きゅうし):或(ある)いは躍(おど)らんとして淵(ふち)に在(あ)り。咎无(とがな)

        し。龍が天に飛翔しようとする時であるがその時では無い。慎重に

        進めば禍は無い。

九三(きゅうさん):君子(くんし)、終日乾乾(しゅうじつけんけん)し、夕(ゆうべ)ま

         で惕若(てきじゃく)たり、厲(あや)うけれども咎无(とがな)

         し。

         猛烈に活動する龍。一生懸命に努力研鑽する時。果敢に活動し、

         内省すること。

九二(きゅうじ):見龍(けんりゅう)、田(でん)に在(あ)り。大人(たいじん)を見るに

        利(よろ)し。地上に姿を見せた龍。大人(九五・指導者)に出会

        い、学ぶこと。基礎をつくる時期。

初九(しょきゅう):潜(せん)龍(りゅう)なり、用(もち)うること勿(なか)れ。地に潜む

         龍。志を立てる時期。時期尚早、力量不足、実力涵養の時。

 ※初九と九二が「地」、九三と九四が「人」、九五と上九が「天」の位置づけとなります。

 

 更に簡略化して纏めますと、この様になります。乾為天の龍の帝王の物語を下から見ていくと、六つある爻の一番下が、頼山陽の十二歳の時と見ます。つまり、龍は田の下に潜んでおり、志を立てて実力をつける時です。そして、五爻(下から五番目)の飛龍の大成に至るまで、何を行わなければならないかが書いてあります。頼山陽はこの乾為天の教えをよく理解したと考えます。

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​©Akamatsu Noboru

龍は君主・皇帝のシンボルで、龍を君主に見立てて君主の歩む道を説いています。そして、龍は剛健で強いシンボルです。しかし、龍独りでは、力は発揮できません。そうです、龍(陽)は雨雲(陰)を呼び、恵みの雨を降らせ、万物を育成させます。龍(陽)と雨雲(陰)は一体なのです。これを君主に例えると、剛健すぎると行き過ぎて傲慢になります。よって、陰の徳である、柔順謙虚であることが大事になってきます。ですので、用九があり、64卦全ての陽爻の使い方が記してあるのです。

 

※仁寿山校の白鹿洞書院掲示は明治維新後、競売にかけられ、亀山雲平先生が詠まれた長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に変わっていますが、双龍はそのまま残っています。その龍にも雲が描かれています。写真からデジタル処理をして再現しました。ご覧ください。

双龍と頼山陽画像4-1.jpg

龍(陽)+雲(陰)=恵みの雨

碑の写真からデジタル処理をしています。

はっきりと雲が彫られています。

出典 『河合寸翁大夫年譜

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

頼山陽は河合寸翁の娘婿の河合屏山に、経書は大義大局を掴む事と仁寿山校でアドバイスをしており、幼少期から物事の正当性の判断とマクロ的に要点を掴むことに長けていたと考えます。

以上のことから、頼山陽は、大学の天下国家を治める君主・宰相の学問から入り、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方の論語を学びました。そして、君子が学ぶ究極の学問、つまり、自然哲学、変化の書、及び「生」の学問を学ぶことによって、気付いたのではないでしょうか。それは、人間とは何か、学問とは何の為にするのかを自覚し、決心し、志を立てることが重要であることに気付いたのではないでしょうか。私はこのように考察しています。

 

◆立志論(抄)

  男児、学ばざれば則ちやむ。学ばば則ち、まさに群を越ゆべし。  

 今日の天下は、なお古昔(こせき)の天下のごときなり。今日の民は、なお古昔の民のごとき 

 なり。天下と民と、古(いにしえ)の今に異ならず。而して、これを治(おさ)むる所以の、今

 の古に及ばざるものは何ぞや。国、勢いを異にするか。人、情を異にするか。志ある人の 

 なければなり。庸俗(ようぞく)の人は 情勢に溺れて、而して自ら知らず。上下(しょうか)

 となく一なり。これ深く議するに足らず。 

 独り吾が党(儒学の徒)、その古帝王(堯・舜など聖天子)の天下の民を治むるの術を伝

 うるものにあらざるか。・・・・・

 吾れ東海千載(せんざい)の下(もと)に生まれたりと雖も、生まれて幸に男児たり。 

 また儒生たり。いずくんぞ奮発して志を立て、以て国恩に答え、以て父母の名を顕わさざ

 るべけんや。・・・・・・

 古の賢聖・豪傑の成すところ、吾れもまた、ちかかるべきのみ。たれか我が言の狂を言わ

 ん。吾れ生まれて十有二年なり、父母の教(おしえ)を以て、古道を聞くを得ること六年な 

 り。春秋に富めりと雖も、その成るやすでに近し。いやしくも自ら奮(ふる)わずして、因循

 (いんじゅん)に日を消す。

 すなわち、かの章を尋ね、句を摘(つ)むの徒に伍して止まらんか、恥(は)じざるべけんや。 

 ここに於て、書して以て自ら力(つと)む。またこれを申(の)べて曰く、ああ汝、これを選

 び、同じく天下に立ち、

 同じく此の民の為にす。 なんじ庸俗に群(ぐん)せんか、そもそも古の賢聖・豪傑に群せん

 か。―もと漢文。

 

◆癸丑歳(きちゆうのとし) 偶作   [述懐(立志詩)]

 十有三春秋     十有(いう)三の 春秋(しゅんじゅう) 

 逝者已如レ水    逝(ゆ)くものは すでに水のごとし

 天地無二始終一   天地 始終なく  

 人生有二生死一   人生 生死あり

 安得下類二故人一  いずくんぞ 古人に類して

  千載列中青史上   千載(せんざい) 青史(せいし)に 列するを得ん

【大意】

 わが十三歳の年月は、水の流れのように、早くも過ぎ去ってしまった。天地には始めも終

 わりもないが、人生には限りがある。だから、生きているうちに、昔のえらい人たちに負

 けないような仕事をして、長く歴史に名を残したいものである。

 ◆汝、草木と同じく朽(く)ちんと欲するか

    頼山陽は、この言葉を高らかに唱えて、わが身を励ましたそうです。

​頼家に伝わる占筮道具

 今回、頼山陽史跡資料館様に撮影の協力を頂いて、頼家に伝わる占筮道具を紹介致します。儒学者にとって占筮は思考鍛錬ツールでした。『易経』は占いと人倫道徳・自然哲学を一体として説いているところに英知の書と言われている理由があります。

頼山陽史跡資料館所蔵

筮竹(メトギグサ)3㎜φ×300㎜×50本

50本全ての両端に朱・黒漆塗、付属品絹布2枚(濃緑・黄染)・平打紐

古代中国では易占の時に蓍萩(メドハギ・筮萩とも書きます。マメ科)の茎を使っていました。現在は筮竹を使うようになっていますが、頼家ではメトギグサを使われていたようです。※蓍:メド、メドキ、メトギ、メトギグサ、メドギグサとも言います。目処(物事の見通し)から予言の木とも云われていました。

・筮竹の数は50本で大衍(たいえん)の数から来ています。

句(こう)、股(こ)、弦(げん)の各数値は、中国の古代人が竿を立て影の長さを見て、農作業の時期を決める際に発見されたものです。そして、其々の2乗の和は50となります。この50の数字を大衍の数と呼んでいます。時空から算出したこの数字は「天地の理」を総括しています。「大衍」の「大」は宇宙の至極、「衍」は演算の意味があります。大衍の数は「ピタゴラスの定理」、又は「句股弦(こうこげん)の定理」とも言われています。占筮では筮竹を50本使用し、内1本を太極とし、残る49本を占筮として活用します。古代人が圭表の運用で経験から編み出した数は49となっており、自然の運行として模した筮法となっています。『易経』繋辞上伝(易の総論)第九章 本筮法の説明があり「大衍の数」が記載されています。

※占筮時、宇宙の摂理に祈念して、無念無想で右手の親指で筮竹の真中を分けます。扇状になった真中を分けるのは、中を得るからです。

頼山陽史跡資料館所蔵

木製、陰の部分2面彫り(本体中央に切り込み、朱で彩色)

角材17㎜×17㎜×105㎜

付属品布袋(177㎜×196㎜、絹製瓢柄)

算木は筮竹で得た陰陽の爻や卦の記録を行ったり、占考を行ったりする道具です。材質は黒檀や桜材などが使われます。

頼山陽史跡資料館所蔵

木製、6個1組の2セット。陰の部分2面彫り

(本体中央に切り込み、朱で彩色)

角材12㎜×12㎜×90㎜

◆占筮方法は3種類あります。

 2回筮竹の操作を行うのは内卦と外卦を出す為に行います。最後の1回は爻を出す為に 

 行います。ここから三変筮法と云います。

 略筮法は江戸時代から行われていました。江戸時代中期に活躍した儒学者で有名な新

 井白蛾(あらいはくが・1715~1792)は略筮法をよく用いていました。また、易の

 占筮の大家で実業家の高島嘉右衛門(呑象)も略筮法を使っていました。

 

  • 中筮法は筮竹の操作を6回行う方法で六変筮ともいいます。

 略筮法の内卦、外卦を出す要領で下から爻を六爻出していきますので六変筮法と云わ

 れています。6回の筮竹操作を行うのですが、変爻が出現しないことがあります。その

 場合、中国の欧陽子、朱子の七考占の法則が使われます。

 中筮法も江戸時代から行われていました。本筮法の特徴を生かしながら煩雑さを省い

 ているのが中筮法です。眞瀬中州(ませちゅうしゅう・1754~1816)はこの中筮法

 を発案したと云われています。

 

  • 本筮法は古典的な筮法で18回筮竹の操作を行います。時間が掛かりすぎる事や集中力が必要な為、現在ではあまり使われていません。

頼山陽先生像

頼山陽史跡資料館の入口から撮影

​姫路藩を救った河合寸翁

文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建(73万両の借財返済)の功に報いる為に、当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を大老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。そして、その山の麓に河合寸翁は人材養成の学校として仁寿山校を設立しました。その仁寿山校跡の敷地に碑の礎石が残っています。私はこの礎石との出会いによって 江戸時代、中世、そして中国の周・漢・宋・明時代の思想や教育等を探究することになりました。河合寸翁と仁寿山校から播磨の歴史、日本の歴史、そして中国古代の歴史などを探究し、人間学を学んでいきたいと考えてふるさと研究も行っています。

安岡正篤先生は終戦後の混乱期、日本人の心を取り戻すべく「郷学」を唱えられました。郷土の賢人を顕彰し、郷土の学問・業績を郷土の人に回復させようと提唱されました。その学問、その思想から「自己を知り、自己をつくる」そして自分の環境を及ぼしていくことが使命であると、そして、「郷学を過去の遺物とせず、新しい時代を生きる活力の源泉としなければならない」と唱えられました。現代もその様な時代ではないでしょうか。   

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​©Akamatsu Noboru

仁寿山の教育

仁寿山校の教育内容(実学を重視)
『易経』も含め四書五経を教えておりました​。

■「賢人は国家の宝」

 ・河合寸翁の人材を愛する心が学校の設立を実現させた。

 ・藩の補助を受けたが私学校であった。姫路藩は藩立として好古堂が存在した。

 ・文政五年開校(1822)。 初め仁寿山書院と称した。

■校風と授業について

 ・校舎内に朱子の白鹿洞書院掲示碑を建立した。(学問の心構え。1825)

  頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞掲示」を学生に講義を行った。

 ・実学を重んじ、「治国平定天下経世済民の人材を養成する」※1ことを主目的とした。

 ・学問に志がある子弟、藩選抜の子弟、及び他藩の志がある者を受け入れた。

 ・「経書を講説」※2  

   (五経:易経、詩経、書経、春秋、礼記/四書:大学、中庸、論語、孟子など)

 ・「学科は漢学、国学、習字、習礼などで、素読、復読、討論、質問辨義などを行った。」

   ※3 習礼(しゅうらい:重要な儀式の予行) 復読(繰り返して読む)質問辨義

  (質問し正しく弁ずる)

 ・太極図・論性説を発行。(1832)

 ・仁寿山に招聘された人々

   頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。

   堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など

 ・河合寸翁没(七十五才  1841)

 ・「1842年 仁寿山を廃止し、寄宿舎を好古堂に移す。医学寮は残る。」※4

  ◆頼山陽の詩

   『発播仁寿山校諸生』『姫路懐古』『重陽在仁寿山校』など

  ◆頼山陽、藩主酒井忠実に『日本外史』を献上    

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姫府名士河合寸翁伝 仁寿山校絵図より

日本外史で有名な頼山陽が仁寿山校で
朱子の白鹿洞書院掲示を講義しました

「日本外史」で有名な頼山陽は文政八年(1825)の秋に、この朱子の「白鹿洞書院掲

示」を学生に講義をしました。

この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の要諦・教育理念」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。碑の主要なところを抜粋しました。

 ◎朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。

◆朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物

※2 『孟子』 ※3『中庸』 ※4『論語』 ※5『易経』損卦 ※6『易経』益卦

※7『漢書』 ※8『論語』 ※9『孟子』

 

「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。

博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。       

言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。

忿(いか)りを懲(こ)らし慾(よく)を塞(ふさ)ぐこと※5、善に遷(うつ)って過ちを改めること※6。

右は身を修むるの要なり。その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を

計らないこと※7。右が事柄に対処する要である。

自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。右が人と応対する要である。」

◇頼山陽銅像  (竹原).JPG

​©Akamatsu Noboru

頼山陽の銅像
頼山陽の故郷・広島竹原

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「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

※岡山県にある興譲館高等学校はこの「白鹿洞書院掲示」が建学の精神となっています。

 YouTubeに興譲館高等学校の動画が載っております。

姫路藩河合寸翁、仁寿山校で『太極図』を出版

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天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』が出版されました。『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤(しゅうとんい)がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録(きんしろく)』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目を担いました。

道体

「宇宙の根源は無極にして太極、これが動けば陽を生じ、動が極点に達すれば静となり陰を生ずるが、それが極点に達するとまた動となる。こうして陰と陽が分かれ、たがいに変化合一して水・火・木・金・土の五行を生み、その運行によって四季が循環する.陽は男、陰は女となり、二つの気が交感して万物を生む。かくて万物がつぎつぎに生れ、その変化は無限である.人間はこの陰陽の気の最もすぐれたものを受けているがゆえに万物の霊長である.とりわけ聖人は中正仁義によって人の行為の規範を定めた.その徳は天地に等しく、その明察は日月に同じである.」(周敦頤)

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出典 世界人物辞典 周敦頤より掲載

昌平黌の柴野栗山が河合寸翁を『易経』の「鼎」で諭す

河合寸翁が26歳の隼之助の時、個人の正式名称の諱(いみな)の「鼎」を変えたいと、学界の重鎮で昌平黌の柴野栗山先生に相談をしたようです。彼の心は悶々としていたのではないかと思います。下に記載している彼の生い立ちを読んで頂くと察しがつくと思います。栗山は周易の「鼎」の卦と爻について、河合隼之助に説明して諭しています。鼎は火風鼎と呼び、外卦は離(火)、内卦は巽(風)で成り立っています。外卦は離(火)で明徳、巽(風)は従順の意味で、従順であれば明徳を承け「鼎」(改革調整の道)となります。二爻の九二は剛中の徳があり(隼之助を九二としている)、六五の藩主を補佐して君臣一致和合して藩政改革・財政改革を成せと捉えることができます。柴野栗山先生はこの様な話をして、河合隼之助を諭したようです。河合隼之助(河合寸翁)はこの教えを守り、実行して姫路藩の藩政改革と財政改革を成し遂げたのでした。因みに「鼎」は古代中国で使われた煮炊きする銅器で、煮て柔らかくし、それを天帝に供えて祭り、賢者の言葉に従えば物事は成就するという意味があります。(鼎は祭器に使われます)

※河合寸翁の生い立ち

河合寸翁は祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。

 

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​©Akamatsu Noboru

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​©Akamatsu Noboru

河合寸翁のお守り
とストラップ

頼山陽と渡部昇一

 前項で『易経』と頼山陽の考察文を記載させていただきましたが、渡部昇一先生の著書『知的生活の方法』を読んで『易経』と頼山陽のことを知りました。渡部昇一先生は、皆さんもよくご存じと思いますが、上智大学名誉教授で、英語学者、哲学者、評論家でもあり、多くの著書を出されている著名な方です。平成27年に逝去されました。享年86歳でした。「知の巨人」と云われ、自宅には地下三階の書庫があり、15万冊の蔵書を遺されました。私は30歳の時、先生の講演を聞いて、明確で分かり易く、興味深い講演だったことを覚えています。

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 著書『知的生活の方法』の中で、渡部昇一先生が頼山陽の漢詩に出会ったことが書かれています。先生は小学生の頃、少年講談や少年向き『三国志』を読まれ、大人向けの『キング』という雑誌の付録にあった『唐詩選』の有名な漢文を見て、感動されたそうです。その事から、五言絶句を知り、漢文をやりたいと思い、お姉さんに塚本哲三著『基礎漢文解釈法』の本を買ってもらって漢文を学び始め、朝5時ごろ台所で火を焚く手伝いをしながら大部分を読み、学ばれたそうです。その著書の中に、頼山陽が11歳の時に書いた『立志論』に出会い、自分よりも年下の人間が書いたことを知って愕然としたそうです。そして、先生はその漢詩の二文「男子不学則己 学則当超羣矣」を書いて机の前の壁に貼り付けたそうです。また、頼山陽が「汝草木と同じく朽ちんと欲するか」を紙に書いて自らを励まして勉強したと知って、先生も同じように紙に書いて机の前に張り付けていたそうです。その様なことから、漢文と漢字が無暗に好きになったそうです。それから頼山陽が13歳の時に作った『立志詩(述懐)』に出会って、当時12歳だった先生は、山陽にあやかりたいと思って漢詩を作り始めたそうです。渡部昇一先生は子供の頃に頼山陽の漢文に出会い、頼山陽と同じく「小さな自分で一生を終わらせるな」と思われたのではないでしょうか。そして、愛国心を強く持たれていたのも同じだったのではないでしょうか。渡部昇一先生も母親を尊敬し、母から常に正直であれと幼少から教えられていたそうです。そして、自分に対して忠実であれと心に基軸を持っておられたようです。先生が子供たちに遺された教えは「明朗であれ」とのことです。未来を生きる若者に対して、日本のあり方や未来を生きる道筋を書籍として多く遺して下さっています。

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『日本外史』 頼山陽 著/頼成一 訳 岩波書店

 先生は経済的に苦しい学生時代、苦学して大学生活を送り、ドイツやイギリスに留学をされています。苦学生であっても、焦らず腐らず、自分に忠実に弛まぬ努力をしたから今日があるとおっしゃっています。頼山陽も大志を抱いて出奔した後、厳しい監禁生活の間に時期を待って学び続けました、又、河合寸翁も、祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。

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 左から、『姫路城 凍って寒からず』寺林峻 著
『播磨学講座3⃣近世 花盛りの城下で』姫路獨協大学播磨学研究会・編
​『姫路藩の名家老 河合寸翁 
藩政改革と人材育成にかけた生涯』熊田かよこ 著

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『頼山陽 上 中 下巻』見延典子 著

 『易経』のフィールドワークとして、河合寸翁と仁寿山校を探究する様になり、河合寸翁から、山崎闇斎、朱子、頼山陽、そして、渡部昇一先生の本と出会うことができました。彼ら賢人の生き方から、本当の学問とは何か、自分の人生をどのように生きていくのかを更に考える様になりました、また、最近では、死ぬまで学び続けることが大事であると考える様にもなりました。私は、自宅に佐藤一斎の『三学戒』の額を掲げています。昔、新たな道に挑戦するため退職した時、広島出身の会社の大先輩から頂いた額です。今もこの『三学戒』の額を毎日見ながら生活をしています。 私の人生目標である生涯学習の励ましの言葉となっています。

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 尚、渡部昇一先生は、麗澤大学学長の中山理先生と『運命を開く易経の知恵』を出版されています。副題は「老いも若きも、学ぶべきは人間学」となっています。対談形式で書かれており、博識の両先生が様々な視点から『易経』を語られています。

​先の大戦を天地否、地水師、地天泰で考えてみる

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コールドMountians

戦争と平和

 『易経』では、平和の卦は「地天泰」、天地が和合する卦です。反対に天地が和合しない卦は「天地否」です。戦争対処の卦は「地水師」です。  戦後、我々戦争を知らない世代は平和を謳歌し産業立国を目指して生きてきました。反対に父の世代は戦争の時代でした。あまりにも強烈な体験を父は海軍で経験をしています。多くの人達が亡くなりました。何故、日本人が戦争に突き進んで行ったのか、それは、大国の謀略と、その謀略に気付かなかった我が国の軍大学校卒のエリート、つまりスペシャリスト達の驕りと暴走であり、楽観的な精神主義で現実を直視する能力が無かったことに尽きます。『易経』の教えから照らし合わせれば、負ける戦争であったことがわかります。日露戦争に集結したトップ達は全体が見渡せ、政治が理解できるゼネラリストであったと思います。 令和の日本は、外敵がやってくる確率が高くなりました。自分達の国は自分達で守る「受益者負担の精神」で国防をしっかり考える事が必要な時代になりました。平和の時代が末永く続くように日本人全員が努力しなければならない時代ではないでしょうか。父の戦争体験をムービーにしました。観てください。​下に『易経』の解説を入れています。

参考書籍など

『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 豊田譲 著 光人社NF文庫 1993.11

『黒幕はスターリンだった 大東亜戦争にみるコミンテルンの大謀略』落合道夫 著 ハート出版  

 2018.4.5

『転落の歴史に何を見るか』齋藤健 著 ちくま文庫 2011.4

『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』  森恒英 著 グランプリ出版 1995.1

​戦争対処の道・地水師䷆

地水師(序卦伝7番目)䷆ 師  坎下坤上 【戦争対処の道】

師は衆人が集まって争う意で、集団で戦い争う卦です。上卦は坤で地、下卦は坎で水の意。大地の下に水が集まっている象意から多くの人が集まっていると解し地水師と名付けました。存亡を懸けた戦争対処の道を説いています。師は正義と大義の為に戦う武力行使です。国の存亡を懸けて戦うので、正しい大義名分が必要であり、その軍隊を統率する者は徳のある優秀な人間でなければなりません。

 「比は楽しみ、師は憂う」(雑卦伝) (師 錯卦 ䷇比)

 比は、九五の天子は他の五つの陰爻を統括し、陰爻達は君子と親しんで楽しんでいる。師は国の存亡を懸けた戦いに臨むので険難や悩み(下卦に坎)と言う憂いを包含しています。

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​©Akamatsu Noboru

​地天泰䷊と天地否䷋

天地否(序卦伝12番目)否 坤下乾上 閉塞・乱世対処の道】

天の気と地の気が交流しない象です。天の気は上昇し、地の気は下降し、交流、調和しないで塞(ふさ)がっています。人間関係で例えると、上下が相通じない状態です。物事や、人間関係、組織など通じないことを表しています。君子はこのような暗黒の時代に遭遇したなら才知力量を隠して時期を待ち、志を持つ臣下、賢人と平和な世が来る様に努力していく事が重要になります。

地天泰(序卦伝11番目) ䷊泰 乾下坤上 【天下泰平・平和の道】

この卦は安泰・やすらか、平和、天地交流の卦です。内卦は乾で天、外卦は坤で地です。天の気は上に昇ろうとし、地の気は下に下ろうとしています。それぞれ通じ交流し万物が生まれます。人間の上下関係、君臣の関係など双方の気が交流すれば事がうまく運びます。この卦を泰と呼び、双方の気が通じて調和することを表している卦です。

​ ※内卦=下卦、外卦=上卦

否泰はその類に反するなり。」(雑卦伝) (泰䷊ 綜卦 否䷋

 否と泰は仲間や同類が正反対。否は小人の仲間が一緒に進み、泰は君子の仲間が進  

​ むのである。

​上卦は坤・地で気は下降

​下卦は乾・天で気は上昇

​地天泰
​天地交流
安泰

​天地否
天地交流せず
​争乱

​上卦は乾・天で気は上昇

​下卦は坤・地で気は下降

泰平の時には油断せず、平和な時代が永く続くように努力しなければなりません。その事を怠ると天地否䷌の争乱や戦争に傾いていきますので要注意です。地天泰で否なる兆しを見たなら迅速に対処が必要です。常に天地否と地天泰をセットで意識しておくことが肝要です。

桜の花
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